明治十五年、出羽三山(山形県)の一つ 湯殿山総本寺大日坊 第八十三世貫主 大網精周は、八回にわたる北海道巡教の際 小樽区(当時)の篤信者 宮林丹十郎の一寺建立を願う懇望に接し、明治十六年七月二十一日 小樽港信香(のぶかわら)町コンタン町(現 若松十字街周辺)に懸錫所を創設する。
精周は寺の基礎造りを成し終え大日坊に帰山、明治二十一年 弟子の中川慈照を当地に派遣する。慈照は、明治二十三年十一月二十四日 寺号公称、翌二十四年七月八日 汐見台に寺領を移し本堂を建立。師の名にちなみ大網山精周寺とし、第一世住職を拝命する。
明治四十二年 大商家(後に貴族院議員) 高橋直治より現在地に三千四百坪を譲り受け、本堂を解体移転。当時としては未開地への大移転と言え、壇信徒の半数以上を失うも、愛生病院長 木村燐太郎・海運業 猪股孫八・銃砲火薬業 佐々木孝養らの篤い保護を受け、学徳布教のみならず、現入船十字街から現奥沢十字街への開墾に六十人の人材を長期間提供し、小樽公園の開園に尽力するなど公共事業に影響を与えた。多くの檀信徒の慈照を慕う声に、大正八年花園説教所三角堂を建立する。
本山は、大和 長谷寺(真言宗豊山派総本山、全国に末寺三千余ヶ寺を有する。)当山は北海道支所 寺番第一番である。現在、北海道三十三観音 第八番札所、北海道八十八カ所 第六十五番札所として夏期の巡拝時期には二千人を超える巡礼者を迎える。境内には、本堂(創建当時の建物)、檀信徒会館、納骨位牌堂、庫裡、山門、薬師門、観音堂付属 獣魂霊堂、五輪塔等が列ぶ。
本尊胎蔵大日如来は総丈十尺あり羽黒山の本尊であった。本堂右脇間 総丈六尺二寸の不動明王(二大童子附)も羽黒山一宇の本尊である。慶長年間以前の作(四百年以上前)と伝えられ、明治七年 大日坊に遷座されていたが、時は廃仏毀釈、神仏混合の気風のさなか、明治二十年 精周寺建立にあたり大日坊より請来された。諸堂内には五十体を超える仏像が安置されているが、檀信徒会館大広間の不動明王立像は、木像では一番古く室町時代の作と評価されている。
薬師門は二層式の門であり、多くの仏像が安置されている。
一層目は、総丈六尺の風神・雷神像は極彩色(岩料)で北海道ではあまり例がない。
二層目には、薬師三尊、十二神将が鎮座し、外側の東西南北の四隅には、青龍・白虎・朱雀・玄武が配され、二層目天井に黄龍が宝珠を持す。
又、獣魂霊堂内 涅槃堂の内仏は縦六尺・横四尺の釈迦涅槃のレリーフで、五寸の厚みを持ち一見の価値がある。
第一世住職 中川慈照は学徳兼備の名僧であった。本堂下陣に掛かる『大般若経縁録諸言』は達意の文面に、流れるような筆の跡が二間の紙幅に溢れている。慈照は明治二十五年「小樽佛教青年会」を創設。その機関誌『報恩の友』の創刊号は、明治二十六年一月五日に発刊。小樽で発刊された最古の活版印刷物であり、全刊完全な形で保存されている。北海道内においても現存する印刷物としては、知る限り最古と思われる。
大正九年、慈照は六十一歳にして、日本佛教連合会を代表しインド・カルカッタ吉祥法寺(吉祥法王寺)の開堂式に出席する。十ヶ所の仏蹟巡拝を達成する中、帰国する一年八ヶ月の間、ブッタガヤの大塔の発掘に尽力。その功績に対し、バラモン教徒 バガワーヌ・ダース氏から、発掘所蔵していたアショカ王の持念仏『降魔成道の釈尊像』(22.3cm)を譲り受けている。
インド・パーラ期(九世紀頃)のものであり、黒色緑泥石の高浮き彫りで、北海道新聞(昭和三十八年八月二十七日付)によると「メトロポリタン美術館」所蔵の「転法輪仏像(八世紀)」の様式を継承した傑作としている。現在秘仏として、九月二十一日「大日祭」に開帳されている。
大正十一年 慈照が遷化。七回忌の供養塔として第二世龍洞が本堂前に建立されたのが『五輪塔』である。高さ十二尺、総御影石造りで八葉の台座は、たたみ二畳を超える一枚石であり、二尺八寸の厚みを有する。地部の四角柱の一辺は三尺一寸あり、八十年以上経った現在も、その風体は堂々としている。北海道のみならず全国的にも貴重なものである。
他に『弘法大師版木』三枚、『国訳一切経』初版本全巻、『金剛頂経疏』初版本全巻等がある。